振り回される人生

 

孤独を恐れる人は、他人に影響されやすい側面を持っています。

 

周囲から外れないように配慮するあまり、「自分の声」よりも「他人の声」を重視しているからです。

 

他人からの評価を優先させれば、他人が「良い」というものを「そうか、良いのか」と捉え、他人が「悪い」というものを「そうか、悪いのか」と受け入れてしまう事になります。

 

それは、自分で選択しているようで、実は無意識のうちに周囲に選択させられているわけで、自分ではなく他人の人生を生きているのと同じ事です。

 

では、なぜ他人に影響されてしまうのでしょうか?

 

それは、自分の考えに自信を持てないからです。

 

自分の考えに自信が持てないという事は、自分の本音を信用していないという事です。

 

これは、自分というものをないがしろにしているという事です。

 

自分は本当はこう思っている、本当はこうしたい、という本心があるのに、それを受け入れず、抑えようとしたり否定したりすれば、いつまで経ってもやりたい事はできないです。

 

そんな人が影響される「他人の価値観」とは、社会の常識や道徳感、倫理観などが挙げられます。

 

その1つの典型例が「縁起」です。

 

例えば、仏滅の日に結婚式を挙げるのは「縁起が悪い」という理由で避ける人は少なくないと思います。

 

それは「縁起をかつぐのは良い事」という考えがあるからです。

 

あるいは、親や親戚から「縁起が悪い」と言われて抵抗できないからかもしれません。

 

ですが、その縁起というものの正体はいったい何でしょうか?

 

そして、その縁起をかつぐ事で、いったいどんな良い事があるのでしょうか?

 

安心ですか?

 

安心が得られる理由は、仏滅や大安を定める「六曜」を信じているからですが、ではそれを信じる根拠とは何ですか?

 

六曜は元々中国由来の慣習ですが、本家の中国では意味がないものとしてとうに廃れています。

 

つまり、信じるに足る根拠なんて既に存在しないわけです。

 

反対に、縁起が悪いとされる事をすると、一体どういう損害を被りますか?

 

仏滅に結婚式を挙げると不幸になるとか?

 

離婚する事になるとか?

 

その見えないマイナスのパワーはいったいどこからどうやってもたらされるものなんでしょうか?

 

そのように掘り下げていけば、単なるオカルト話に過ぎない事が分かると思います。

 

仏滅に結婚式を挙げても何も困る事はないと思います。

 

むしろ良いのではないでしょうか?

 

仏滅だから割引を受けられます。

 

挙式当日も人が少ないので、会場を独占できて、2時間半の予定が3時間半と1時間オーバーしても、制限もなく延長料金もなく、滞りなく終える事ができると思います。

 

もしこれが大安だったら、後ろに別の組がつっかえて無理だと思います。

 

多くの人がこだわっている「縁起」を紐解いていくと、実は根拠の無い思い込みだと分かります。

 

「縁起でもない」という言葉も、直面する現実から目を背ける逃避的な発想である事も分かります。

 

例えば、親に相続の話をすると「まだ元気なのに縁起でもない」という人がいます。

 

ですが、親が健在な内に遺言などの相続対策を考えておかなければ、それこそ親が認知症になったり、本当に亡くなったりしてからでは、むしろ家族がもめる原因にもなり兼ねません。

 

「不謹慎」という言葉も、実は誰も何も具体的に困る事はないのに、それを言う人にとって気分が悪いだけです。

 

つまり多くの人が、無意識の内に縛られているだけです。

 

それが分かれば、自らを解放する事もできると思います。

 

このような目に見えない常識という圧力や意味の無い道徳心、邪魔な固定観念はまだまだたくさんあります。

 

例えば、政治家同士の不倫疑惑で、「議員としての資質を疑う」等という意見が飛び交う事があります。

 

それも多くの人に「政治家は清廉潔白廉であるべし」という価値観があるからだと思います。

 

ですが、私は全く気になりません。

 

政治家がプライベートでどんな恋愛をしようと、自分を含めて国民や市民の幸福に寄与する事はありません。

 

つまり、政治家には政治能力を問えばいいと考えているからです。

 

清廉潔白で粛々と任期を終える人と、不倫や浮気し放題でも、例えば減税や景気拡大に繋がる法案を通し、国民の収入が増えて支出が減り、国民の生活をより豊かにした人とでは、どちらが好ましいですか?

 

私にとっては後者です。

 

清廉潔白で政治能力も高い人が望ましいという意見もあるかも知れませんが、清廉潔白で道徳心に溢れるような人が、抵抗勢力を跳ね除け、官僚を説き伏せ革新的な政策を実現させることは難しいと思います。

 

世界中の優れた政治家はたいてい黒歴史のオンパレードです。

 

そのくらい常識はずれで肝が据わっているから、大宰相としての名声を得たのだと考える事もできます。

 

そもそも政治能力よりもプライベートなゴシップを重視して、辞任に追い込むとしたら、何のための選挙か、何のための公約か分かりません。

 

仮にそれが犯罪レベルのスキャンダルなら、警察や司法に任せればいいだけの話です。

 

政治家が道徳的であるかどうかと、私たちの幸せには何も関係ないという事が分かれば、そのくらいの事で一々騒ぐのはバカバカしくなります。

 

マスコミもマスコミで、もっと報道する価値の高いニュースはあるはずです。

 

報道の自由とか国民には知る権利がある等と言いますが、国民の下世話な好奇心にまで一々応える必要が本当にあるのでしょうか。

 

不倫報道に時間を取られて、本来報道されるべきニュースが隠れてしまうとしたら、それこそ罪深いと言えるのではないでしょうか。

 

それでは視聴率や販売部数が上がらないというマスコミ側の悩みもありますけど。

 

世間の多くの人が信じる社会の常識や道徳的な「べき論」は、本当にそうなのかと冷静に検討して下さい。

 

その「べき」を守る事で、あるいは守らない事で具体的にどんなメリット、デメリットがあるのかを冷静に考えてみると、実は実体や根拠が曖昧で、本質からずれている事も少なくありません。

 

そもそも常識とは、その他大勢の考え方や行動様式に過ぎないわけで、常識に従って自分を周囲に合わせて生きるという事は、その他大勢の人生を歩む事を意味します。

 

孤独を恐れて自分の本音や感性を無視したり否定したり抑えつけたり、本当の自分と違うことをしていれば無理も来ます。

 

それに、世間の常識、世間的な道徳心に従って生きていれば、波風が立たなくて暮らせる一方、何の独創性もないという事になります。

 

もちろん完全に社会の常識や良識、倫理観や道徳心を捨てろという事ではありません。

 

また、他人の意見を参考にする事も必要な事です。

 

それでも最後は自分の感性に従って判断する事です。

 

その感性を取り戻す事も内省によって得られる効能の1つです。

 

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