何でも捉え方

 

内省で習慣化したい作業の1つは、自分に起こった事の意味や理由うぃ解釈して論理的に理解して、自分なりに納得する事です。

 

逆に、結果や状況に意味を見出せなければ、「なんで自分だけ」「自分だって努力しているのに」といった不満や絶望感に襲われる事になります。

 

あるいは、同じ失敗を繰り返してしまう事にもなり兼ねません。

 

例えば、意志が敷く働いていて、体調を壊して入院した時、「これは休息しろという事なんだろうな」と意味づけする事で、仕事に後れをとってしまう焦りや、会社に迷惑をかけるという罪悪感を和らげようとするのはよく聞く話だと思います。

 

仮に、リストラに遭ったり、大好きな人との別れに直面したりしても、「自分はこの会社に合わなかっただけで、他の場所で価値を出せという事だ」「他にもっと良い人と巡り逢う為の別れなんだ」等と意味づけする事によって、苦しみも和らぎ、未来に対して前向きな気分が蘇ると思います。

 

tだし、人には思考の癖があり、ついネガティブな発想に傾く人も少なくありません。

 

そういう場合、もっと自分の声が出てくるまで向き合うのです。

 

そうして、前向きな意味づけができる思考体系を獲得していけば、これから直面するかもしれない、はた目には不幸に見える状況に遭遇しても、心が折れずに乗り越える事ができます。

 

そしてその自信は、未来に対する不安を軽減させて、むしろどのような環境からでも幸せを抽出する事ができて、未来はハッピーだと感じさせる原動力になります。

 

しして、こうした内省作業も1人でやるからこそできる事です。

 

しかし、悩みを他人に相談すれば、その人の価値観という枠で自分の経験を当てはめられてしまいます。

 

他人は他人の価値基準に基づき、「君はこうすべきだったと思う」などと、自分とは違う捉え方をすると思います。

 

仮に、それが客観的で正しかったとしても、「自分はこう思っている」という事が共感されずに違う意味付けをされると、しっかりと状況を捉えて自ら対処しているという「把握可能感」や「処理可能感」を持つことができません。

 

他人に不本意な意味づけをされると、不要な反省や自己嫌悪、敗北感を味わう事になり兼ねません。

 

そこで極端ではありますが、分かりやすい例として、かつて世間を騒がせたSTAP細胞問題で説明します。

 

STAP細胞の再現性が乏しくても、一度でも成功し可能性が見えたのであれば、さらなる研究へのモチベーションは続くはずです。

 

将来の医療に貢献するはずだという自己有能感も得られます。

 

あのように世間からの好奇な目にさらされるまでは。

 

しかし一連の報道のように、他人から「嘘だ」「捏造だ」などと勝手に決めつけられてしまっては、自分の感情の処理が追いつきません。

 

そして「自分は悪い事をした」などと悲観的になってしまいます。

 

実際、関係者からは自殺者や鬱患者を生み出しました。

 

もちろん、私たちの人生は他人に評価される事の繰り返しですし、それが喜びになる場面もたくさんあります。

 

しかし他人から、自分の本意とは違う勝手な意味づけをされる事ほどストレスな事はありません。

 

そんな雑音を排除する為にも、自分に起こっている事は全て自分で意味を持たせようとする事です。

 

ただしそれは、他人からの評価を無視するという事でも自分を卑下する事でもなく、自分の感情がより幸福感に繋がるよう意味を与え、自己評価をコントロールするという事です。

 

自分が直面する事態や状況が仮に望ましくないものであっても、「自分にとってはこういう意味があったんだ」「つまりこういう事なんだ」等と、有意な経験として捉える事ができれば、あらゆる出来事が自分にとっての糧として納得する事ができます。

 

そうやって、自分に起こっている事を受け入れられれば、現実と理想とのズレが縮小して、悲観的になったり絶望したりする事もありません。

 

状況と自分の感覚が一致する事で、思い通りになっている実感が得られます。

 

もちろん、結果オーライとか自分の都合の良い解釈とか、単なる開き直りに近い事もあります。

 

しかし、状況を自分の枠組みで捉え直し、自分に有意な意味づけができる事は、人生の「首尾一貫感覚」をもたらしてくれます。

 

仮にそれがトラブルであっても、成長の糧だと捉え直す事で、悲観や後悔ではなく、満足感を得る事ができます。

 

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