人は、「結果」に合わせて、事実を「物語」にします。
多くの場合、「結果」が才能の有無の判断基準になります。
これはつまり、結果によって、過去の解釈もすべて変わってしまう、ということです。
面白いことに、「良い結果」が出ると、その人の過去にやっていたことが、”すべて”ポジティブな見方で捉えられるようになります。
ノーベル賞を受賞すると、必ずニュースになります。
そして例えば、受賞者の奥様にインタビューして、彼女にどういう夫なのか尋ねたり、受賞者の出身地へ行って、彼がどんな子どもだったのかを聞いて回ったりします。
「研究者としては一流かもしれないけど、家では何もしない人です」「あまり群れないタイプで、昔から一匹狼みたいな感じです」「何を言われても気にしない、”自分”を強く持っている人です」
という具合に、ノーベル賞を受賞するような人は、普段から普通とは違う、子どもの頃から思考も発想も他の人とは全然違っていた、というような内容のコメントが次々出てきます。
しかし、もし同じ人が、実は「罪を犯した人」だったらどうでしょうか。
「家のことは全て妻に任せっきりで、外へ出かけてばかりいた」「どのグループにも属さず、まったく協調性が無かった」「ルールは全然守らなかったし、人の話を全く聞かなかった」
ノーベル賞を獲った人と罪を犯した人、同じ性格の同じ過去を持った人だったとしても、結果次第でここまで見方が変わってしまいます。
”真逆の認知”をされてしまうのです。
このように人々は、「結果」から遡って「物語」を作ろうとします。
結果を見る→それまでの認知が変わる→新しい物語が出来上がる
この時のキーファクターとなるもの、大きなウェイトを占めているものが、まさに「才能」なのです。
先日の記事で説明したように、「才能がある」と言われている人たちは、”正しいやり方”を選んで努力を積み重ねています。
正しいやり方を選ぶには、その人に合った「動機付け」が必要です。
「動機付け」というのは、いわゆる「やる気」のことです。
「やる気がある」「やる気がない」という言い方をよくしますが、実は心理学的には「やる気」という言葉は使わず、「動機付け」という言葉を使います。
子どもを持つ親は「うちの子はやる気がないんです」と言い、会社の売上が悪ければ上司が「お前たちには、やる気がないのか」などと叱ります。
こういう時、「やる気は、良いもの」「やる気は、前向きなもの」「やる気は、持っていなくちゃダメなもの」というニュアンスが前提にあります。
このように、「やる気」という言葉は、基本的にはポジティブなものとして捉えられています。
なので「睡眠のやる気がある」とか「やる気に満ち溢れる休憩時間」といった使い方はしません。
しかし、眠い時は「寝たい」という強い動機付けがありますし、休みたい時は「休憩したい」という動機付けがあります。
宿題をしない時は、「勉強よりも、テレビを見たくて仕方ない」「勉強よりも、ゲームがしたくて仕方がない」という強烈な動機付けがされています。
眠い時も、宿題をしない時も、実は強い思いによって動いている状態なのです。
つまり、本来、仕事や勉強を意欲的に頑張っている時だけ動機付けがある、というわけではないということです。
人は、どんな時でも必ず動機付けによって動いています。
親はわが子に対して「やる気を持ってほしい」と言いますが、その子は「遊びたい」という強い動機付けがあって、「勉強したい」という動機付けがないだけです。
「動機」のない人なんて、1人もいません。
なので、”いかに動機付けするか”が大変重要になってきます。
親が子どもに対して願うやる気も、上司が部下に対して願うやる気も、やり方次第できちんと引き出せるはずです。