「知る」とは、「今まで恥ずかしいことをしてきた」と気付くことです。
例えば、マナーを知らない人がマナーを知ると、ハッとします。
「今まで恥ずかしいことをしてきた」と気付かされます。
これが、知るということです。
知らなければ、自分が恥ずかしいことをしているということにすら気付きません。
18世紀、アイルランド出身の哲学者バークリーが、「存在するということは知覚されることである」と主張して世界を混乱させました。
これは換言すれば、「知覚されないものはこの世に存在しない」という考え方なのです。
「だったら知らない方が気楽でいいじゃないか」と考える人もいると思います。
しかし、それでは生きることを放棄したことになります。
そして何より、成長する悦びを味わえません。
せっかく立派な頭脳を授かったのだから、人は何かについてよりよく知って、成長するという使命があると思います。
マナーに限らず、これまで知らなかったことを知ることで、世界は広がっていきます。
例えば、小学校の算数の授業中に、「私のこんな天才的な疑問を解決できる教師はいないだろう」と自信満々に思っていたとします。
しかし、高校に進むと、それが「微分積分」であることを知ります。
「天才だ」と思っていた自分の疑問は、とっくに解決されていたのです。
そしてそんな自分を恥ずかしくなると同時に、目の前に道が拓けると思います。
それがきっかけで、数学者の道を選ぶことになるかもしれません。
あるいは、多くの同級生たちと語り合う時に、「絶対的な真理なんて存在しない」「価値観は人それぞれだ」などと持論を展開している自信家がいるとします。
その人は生まれて初めて哲学書を読んだ際に、きっと気付くはずです。
「自分が無敵だと自惚れていた論法は、遥か紀元前に哲学者が考え出していた」
恥ずかしくなると同時に、その人の目の前には道が拓けるのです。
それがきっかけで、哲学者の道を選ぶことになるかもしれません。
知るということは、今まで自分が恥ずかしいことをしてきたと気付く行為です。
そして「知る」という行為から逃げることは、人として最も恥ずかしい生き方です。
知らないことが恥ずかしくても、大丈夫です。
恥ずかしさを乗り越えてこそ、本物の人生が始まります。
物を知らないことは恥ずかしい。
だけど、知らないのに知っているふりをするのは、その数倍、恥ずかしいです。