「自分にはとうてい勇気なんかないと思い込んでいる人」は少なくないと思います。
自信のなさに似ていますが、微妙に違うのは、踏み出す、という事への恐れが中心にある事です。
「踏み出す」「思い切って飛び込む」と言ってもいいでしょうか。
新しい事を始めるのに、新しいチャレンジをするのに、思い切って行ってしまえばどうという事はないのに、踏切の前ですごく躊躇する人です。
確かに飛び出してしまえば後に引けなくなりますし、飛び出していった先に何があるか分からないとも言えます。
それをリスクと感じる訳です。
人よりリスクに敏感なので、客観的にはそこまでではなくても、なかなかチャレンジできません。
本当にリスクがあれば、もちろん慎重に動かざるを得ないのは当然です。
ただ、リスクが大してない時や、リスクがあっても踏み外さない方法が分かっている時に躊躇する必要はそれほどありません。
少し調べればリスクが大したことない事も分かる場合でも、多くの友人、同僚がすでに向こう側に渡って無事であることが分かっている場合でも、あまり意味なく、過剰に躊躇する、という人がいます。
動く事によるリスクはもちろんありますが、その時に動かないリスクもかなりあります。
そのバランスによっては、さっさと動く方がリスクが小さい事も良くあります。
特に、環境が激変している時は、人より早く動かないと急激にリスクが高まります。
リスクに過剰な人は、本当に勇気がない、というよりは、「勇気がないと思い込んでいる」に近いと思います。
「勇気」もその性質は「自信」にかなり近く、自分にあると思えばあるし、ないと思えばないものです。
自己規定的、自己実現的な要素が強くあります。
100mを13秒で走る人は、自身のあるなし、勇気のあるなしに関わらずほぼ13秒で走り、全力で走っている限りそれより速く走る事も、もっと時間がかかる事もないと思います。
だいたいその時点での体力、走力によって、似たような記録になります。
ところが、「勇気」に関しては測れませんし、その時の気分でどうにでも変わります。
そうすると発揮される勇気も実力も大きく上下します。
そういうものなので、「勇気がないと思い込む」事も本人の自由で、自分で勝手に決めた、マイルールが自分の発揮できる実力を決めてしまう事になります。
「自分の事をどう考えても勝手だろう、ほっておいてくれ」というわけにはいきません。
決して1人で生きているわけでも、1人で仕事しているわけでもなく、必ず、周囲には家族や仲間、同僚がいますので、やはりバランスというものがあります。
程度問題です。
これまでは「勇気がないと思い込んでいる人」も何とか生き残る事ができたかもしれません。
ただ、仕事が急激にAI、ロボット、ブロックチェーンなどに置き換えられていくこれからの時代に、かなりハンディキャップを負う事になってしまいます。