裸の王様

 

皆さんは「裸の王様」という話を聞いた事がありますが?

 

ある程度人生経験を積んだら、誰の言う事も(基本的に)聞かない「裸の王様」的な生き方の方が幸せかもしれません。

 

現代では、裸の王様でも困る事はさほど起こらないのです。

 

ちなみに「裸の王様」というのは、どんなに権力者や実力者でも、おごりやうぬぼれに陥り、批判や反対意見を受け入れないと、失敗や自滅をするというアンデルセン童話です。

 

この童話の内容をかいつまんで紹介すると・・・、

 

ある国に、お洒落好きな王様がいた。

 

そこには仕立て屋がやってきて、「ばか者」の目には見えない、不思議な布地を作る事ができるというので、王様は注文する事にした。

 

しかし、「ばか者には見えない布地」は、王の目にはさっぱり見えない。

 

もちろん家来たちにも見えない。

 

しかし皆、自分が馬鹿だとは思われたくないので見えないとは言えず、そして周囲も調子を合わせて衣装を褒める。

 

そして王は見えない衣装を身にまとい、大通りを行進する。

 

集まった国民も「ばか者」と思われるのをはばかり、歓呼して衣装を褒めそやす。

 

その中で、沿道にいた1人の小さな子供が、「だけど、何にも着てないよ」と世に、群衆はざわめき始めた。

 

ついに皆が「何にも着ていらっしゃらない」と呼ぶが、王様のパレードは続くのだった。

 

・・・という話です。

 

しかしこの話には、2つの前提条件というか、王様の欠点があります。

 

まず童話に出てくる子の王様には、客観性・合理性・クリティカルな視点が欠けています。

 

そもそも、「ばか者には見る事ができない布地」という、論理的に考えればおかしいと分かるはずです。

 

なのに仕立て屋の話を鵜呑みにしてしまうのは、この王様は知的に怠情だと言えます。

 

また、豪奢な服を着る事は、国民に対して威厳を示すには必要な装備だと考える事もできるし、洋服には体温の調整機能や汗の吸収、害虫や怪我などを守るなどといった、機能的な役割もあります。

 

あえてそれらを放棄する必要性があるのかどうか。

 

そういう視点で見れば、仮に裸にならなかったとしても、別の場面で知的貧困さを露呈する事になっていたと思います。

 

そして逆に言えば、この王様に欠けている視点を補う事ができれば、「裸で街を闊歩する」という事は起こり得ないわけです。

 

そんなの裸の王様になる事の欠点としてよく言われるのが、他人の話に耳を傾けない故に生じる「世の中と自分がズレている事に気が付かない」「独善的・独裁的になる」「道を誤る」「成長しない」などでしょうか?

 

では、仮に自分が世の中とズレていたからといって、何が困るのか。

 

政治家などは別として、情報発信を仕事にしている人間にとっては、むしろズレていた方が大衆の視点とは違う切り口で物事を見られるので、むしろメリットだと思います。

 

独善的・独裁的になったとしても、「自分の考えは間違っているのではないか?」と振り返る事を推奨するのが独断力ですから、その都度軌道修正できます。

 

それにイノベーティブな事であれば、むしろ独善で独裁の方がうまくいきます。

 

スタートアップベンチャーなどは独裁でやらないと、あれほどのスピード感や機動力は持ち得ない。

 

「人の助言も無視すれば道を誤るリスクがある」というのも、独断力があれば破滅するような判断にはなり得ませんし、むしろ他人の助言の方が間違っている事が多いという事が分かるはずです。

 

更に、偏見から脱却するより客観的な視点を身につければ、他人に教えてもらう事の方が少なくなるのです。

 

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