世の中に無数にあるルールをたくさん知り、その本質を追求する事で、様々な場面で応用が利く知恵となる、あるいはルールに縛られずもっと自由になれる、という考えです。
その中でも重要なのは、「そのルールはなぜ、何の為、誰のために作られたのか?」を常に考える姿勢を持つ事です。
例えば学校の校則です。
男子に人気の髪型でツーブロックが禁止されている学校は少なくないそうですが、例えば「高校生らしくない」とか「犯罪に巻き込まれないよう」などという、根拠もなく誰かの趣味嗜好としか思えない校則は珍しくありません。
そもそもツーブロックにして犯罪に巻き込まれた事例があるのか、それは本当にツーブロックが原因なのか。
そして「高校生らしさ」とは誰がどういう基準で判断するのか?
結局は大人に取ってなじみのない異質なものだから排除したいだけ、大人が気に入らないから禁止にしたいだけ、という安直な発想が透けて見えます。
自分たちが勝手にイメージする「高校生像」を押し付けて安心したいという事なのでしょうか?
特に日本人にかけているのが「ルールを疑う姿勢」です。
大抵のルールには、「本質的な目的」があるわけですが、ルールを守る事が目的になると、本来の目的を忘れてしまいます。
例えば感染症対策にはマスク着用が必要ですが、真夏の炎天下に外を1人で歩いていてマスクをする、というのはその典型例です。
密でもないし誰とも喋らないですから飛沫など起こりようがありません。
なのに熱中症のリスクを冒してまでマスクをつける意味は全くない事が分かります。
つまり「何のためにマスクをするのか」ではなく、マスクをする事が目的になってしまっていると言えます。
なので「マスク警察」になる人が出没するのだと思います。
ルールは社会を保つ最大公約数でつくられているので、現実にそぐわない場面も出てくるのです。
技術の進化や時代の変化などによって昔のルールが現実にそぐわない、あるいはイノベーションの邪魔になる事もあります。
そこで、自分の中の道徳観や倫理観もいったん脇に置き、「そのルールの本質は何か?」「この場面ではルールの方がおかしいんじゃないか?」という発想をしてみる事が大切なのです。