いつか慣れる

 

私達は本来、やりたい事のない日常に焦燥感を覚える必要などありません。

 

難解な哲学の領域は別にすれば、「やりたい事は特にない」というのが当たり前であり、人間本来の状態なのではないかと私は考えています。

 

試しに自分の両親や学校の先生、会社の上司に、「やりたい事は何か?」「どんな夢に向かっているか?」と聞いても、明確に答えられない人の方が多いのではないでしょうか?

 

それでも、彼らが別に不幸だというわけではないと思います。

 

実際、ほとんどの人は、やりたい事が見つからないまま社会に出て人生を送り、それなりに幸せに暮らしています。

 

定年退職して年金生活をしている高齢者が、「夢がないからみじめ」とは感じないと思います。

 

朝起きてご飯を食べ、テレビを見たり散歩したり、何気ない平凡な毎日を送っている人が多い事だと思います。

 

社会に出ている私達も、例えば朝起きて歯を磨き、着替えて朝食を食べ、会社にって仕事をし、帰宅すればテレビを見ながら夕食を食べ、お風呂に入り、ネットサーフィンやSNSをして、歯磨きをして床に就くという、割と単調な毎日を淡々と送っていると思います。

 

むろん「やりたい事がある」という状態が理想なのは間違いないと思います。

 

やるべき事が明確だから迷う事も悩む事も少ないし、毎日が楽しく充実します。

 

ただし、好きな事で突っ走れる生活は、それが永遠に続くわけではありません。

 

恋愛のドキドキがずっと続く事はないように、仕事や趣味でも最初のようなワクワクは長期間は続かないのです。

 

同じ事を繰り返していれば飽きるように、人間、いつかは慣れるからです。

 

それに、大人にとって「やりたい事がない」のは不幸ではなく、むしろ平穏である証拠だと思います。

 

会社には多くの人達が「自分に与えられた仕事をしっかりやる」という責任感を動機にして働いています。

 

特にやりたい仕事でなかったとしても、周囲から信用され、それなりにお給料をいただければ、そこに自分の居場所があると感じられ、充足感も得られます。

 

「生活のために働く」「家系のために働く」という人も、やはり「生活を成り立たせるのは自分の責任」「家族を養うのは自分の責任」という責任感で働いていると思います。

 

仕事がそれほど面白くなくても、人間関係が平穏で、そこに自分の居場所を確保できれば安心できますし、周囲から期待されればその仕事に誇りや使命感を持てるようになる。

 

それが充足感となるのです。

 

どんな仕事であっても、当事者意識を持って取り組み、周囲に認められ「あなたのおかげです」「あなたがいてくれて良かった」と言われるようになれば、そこにやりがいを見いだせるのです。

 

やりたい事をやっている瞬間瞬間は確かにとても楽しく充実するのですが、前述の通りそれがいつまでも持続するとは限りませんし、最終的な幸福につながるとも限りません。

 

人は、やりたい事が無くても、やりがいを感じられなくても、幸福に生きる事ができるという事です。

 

だから「やりたい事に出会えれば理想、出会えなくても問題ない」のです。

 

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