「自分は飽きっぽい」と自覚している人は少なくないと思います。
何をやっても続かない自分の性格にがっかりし、新しい挑戦に及び腰になっている人もいるかも知れません。
しかし、三日坊主でも全く問題ないと思います。
むしろ「三日坊主の何が悪い」くらいに開き直っても良いと思います。
もちろん、何事も続けられた方が望ましいという考えは分かりますが、やってみて「何か違う」「これはこういう事なんだ」と納得するだけでも、自分が理解できる領域が広がるとともに、得意不得意が絞り込まれるからです。
また、「やってみよう」は好奇心の表れですし、「とりあえずやってみる」という行動力は、やらずにあれこれ言うだけの人よりも人生を楽しめます。
「知っている」と「やっている」との間には、次元が違うほどの距離があるのです。
一方で、あまりよくない言い方ですが「専門バカ」という言葉があります。
この言葉には「専門外の事は何も分からない」という意味と、「専門分野にこだわり過ぎて視野が狭い」という2つの意味が含まれています。
1つの事を追求し続けると、この専門バカに陥る危険性があります。
例えば「研究一辺倒だったため、配偶者と死別したらATMでのお金の下ろし方も分からず、生活を送るのにとても苦労した」という話があるとします。
非情に狭い世界で生きていると、こういったリスクにさらされる事もあるのです。
コロナ禍でも、感染症の一部の専門家は、どんなに経済が焼け野原になろうと、失業者や自殺者が増えようと、うつやDV・児童虐待や10代の望まない妊娠が増えようと、「自粛しろ」「移動するな」と繰り返し警告しているのは記憶に新しいと思います。
それが自身の役割のためいたし方ありませんが、自分の専門分野という、ごく狭い範囲に視野が限定されていたとも言えます。
むろん感染症の専門家が「出歩いてもいい」「経済を解放しよう」などと言えば、自身の役割に反するので言えない事情は分かりますが、世界は医療を中心に成り立っているかのようにも聞こえます。
社会は医療だけでなく、もっと複雑でさまざまな要素から構成されているにもかかわらず、です。
一方、色んな趣味を持っていて、さまざまな方面に詳しく、何でも知っているマルチナ人もいます。
どこにそんな暇があるのかと思ってしまうくらいです。
そんな多趣味な人たちには、「頭の回転が速い」「臨機応変」といった共通した特徴があります。
おそらく、複数の趣味を体得する要領の良さや、異なる分野に対応できる応用力があるのだと思います。
では、そういった能力は一体どうやって養われるのでしょうか?
そういえば、専門バカに陥りやすいと言われる研究者の領域でも、長く活躍できる人は専門分野を5つぐらい持っているという話を聞いた事があります。
脳への多様な刺激を与える事は、小中学校で身につける「基礎学力」と同じような効用があります。
そもそも学校の勉強の中身そのものは、私達の実生活には直接役に立たない事ばかりです。
しかし、それらの勉強をしていく過程で脳が鍛えられ、その結果として形成された強靭な頭脳が土台となり、社会人として生きていく上で役に立つ事になります。
例えば、どんなスポーツでも、トレーニングの中で「走る」事に時間を使います。
卓球のようなほとんど走らないスポーツでも、弓道のような上半身しか使わないように見えるスポーツでも、必ず走る練習が組み込まれています。
それは、足腰の強さはすべて運動能力の土台だからです。
持久力、瞬発力、バネ、安定性、バランス、姿勢の制御を高い次元で発揮するには、強靭な足腰が必要です。
足腰の訓練を無視して、ラケットを振る練習や弓を引くなどのテクニックだけを練習しても、ある程度までしか強くはならないのです。
より強くなるには、一見無意味にも思える走り込みをする必要があるというわけです。
これは勉強に置いても同じです。
論理的な思考力や問題解決の筋道の立て方、知識の応用方法などは、さまざまな科目のさまざまな単元を学ぶ過程で獲得していくものです。
どんな分野においても、色々な事をやるからこそ脳が鍛えられ、応用力がついていくものです。
例えば違う義務・違う種類を経験する過程で、「この仕事ではどこを押さえる事が重要か」という本質を見抜く力が養われていきます。
言わば知的のアスレチックなのです。
そう考えれば、三日坊主は決して悪いわけではなく、三日坊主の中から経験値を増やし教訓を得られれば、知的アスレチックになるのです。
1つの事を1年間やり続ける事も大事ですが、3日で1つ、1年で122種類の経験を積む事もまた貴重な財産になると思うのです。