無責任

 

進学、就職、転職、結婚など、人生に置いて大きな決断をする時に、親や親戚から反対されて悩んでいるという人は少なくないと思います。

 

むろん、客観的に見れば、人生経験が豊富な親や親戚の方が正しい事もあるかもしれません。

 

しかし、自分の人生を生きるのは本人自身であり、他人ではありません。

 

それに、血のつながりがあっても全くの別人格の他人ですから、親や親戚の価値観・好みと、本人のそれは同じではないと思います。

 

むしろ一致しなくて当然ですから、本来は従う道理などないはずです。

 

親も親戚もあれこれ言うかも知れませんが、最後まで責任を取ってくれるわけではありません。

 

仮に親の言う事に従って望ましい結果にならなかった時、親が仕事をくれるのでしょうか?

 

夫婦喧嘩を解決してくれるのでしょうか?

 

親が生きていれば多少の支援はしてくれるかもしれませんが、ほとんどの場合、親は子より先にこの世を去ります。

 

そうなったらもう親に頼る事は不可能なのです。

 

つまり親は最終責任をとれないという事です。

 

責任をとれないのにあれこれ指図する事を何と言うかご存知でしょうか?

 

そう、「無責任」です。

 

「自分がやりたい事」について親や親戚が口出しをしてきた場合、従うにしても拒否するにしても、最終責任は自分です。

 

だからもし生き方を強制されそうになったら、「では私が死ぬまであなたが責任を持って保証してくれるんですか?それなら言う通りにしますよ」という質問を投げてみたなら、親は何と答えるでしょうか?

 

また、「あなたの為を思って言っているのよ」というよくあるセリフも、実はあなたではなく本人の為です。

 

あなたのやり方や判断が気に入らないから、自分の言う通りにしてくれれば安心だから、というふうに、本人が、満足したいためのセリフなのです。

 

これを一般的には「価値観の押し付け」「余計なお世話」と言います。

 

親が子の「進路ややりたい事」に反対する理由の1つは「親が安心したいから」ですが、見識のある親なら子の意志を尊重します。

 

それでも反対するとしたら、それは大抵は子の考えが浅いからです。

 

だから、自分のやりたい事を親や親戚に理解してもらいたいなら、それをどう実現しどう生活を成り立たせるのか、自分の能力の客観的評価と将来への展望などを論理的に説明する必要があります。

 

例えば漫画家になりたいというなら、今一体1日何時間漫画を描いているのか、どのくらいコンテストに応募しているのか、SNSなどで作品を発表しているのか、どのくらいファンを獲得しているのか、という努力や実績を積み上げる。

 

そしてそれとともに、この先生の助手として就業しながらアルバイトで生計を立てる、3年やってデビューできなければ才能はないと諦めて就職する。

 

といった戦略と覚悟を指示する事です。

 

自分の意志を押し通すなら、「そこまで考えているなら何も言う事はない」と周囲が舌を巻いて手放しで絶賛するような構想と戦略を語り、責任と覚悟を示す事です。

 

そうすれば、当初は反対していた人も支援者に回ってくれる事もあります。

 

世の中には「将来は漫画家になりたい」と言いながら、何も書いていない人、何も発表していない人もいるのです。

 

「自分の人生だから好きに生きていいだろう」「誰にも迷惑をかけていないからいいだろう」と主張は確かにその通りなのですが、覚悟も戦略もないとしたら、その発想は思考を放棄したただの開き直りです。

 

まず「自分の説明が論理的でないから反対されている」という現実に気付かないといけないのです。

 

ちなみに「もう勝手にしろ」などと言われたとしたら、これはさじを投げられたという事です。

 

根拠のないお花畑みたいな夢を語る人を、まともな人は「この人にこれ以上言っても無駄」と呆れ返って相手にしないからです。

 

だから自分がそういう存在になっていないか、冷静に「自分の主義主張には根拠と論理性があるか?」を振り返る必要があります。

 

この姿勢は「親に対して自分が意志や希望を実現させる」事だけでなく、「他の人を動かす」上でも非常に重要です。

 

つまり人生のほぼ全方位で必要なわけですから、常に意識しておきたいものです。

 

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